邵雍(しょう よう)
大中祥符四年(1011)〜熙寧十年(1077)
字・堯夫
自称安樂先生
後世、邵康節と呼ばれる。



煕寧三年、朝廷では新法を施行した。
各地に派遣される特使は皆、新進気鋭の若者で、何かあるごとに波風を起こした。
天下は騒然として州県では、どうして良いかわからなかった。
邵雍は(洛陽の)林下に閑居していた。
門人や旧交のある者等で地方にいる者達は、辞表を提出して帰りたいと思い、手紙で邵雍に聞いた。
邵雍の答えは次のようなものだった。
「今は、まさに賢者が力を尽くす時である。新法は厳格である。それを一分ゆるくしてやれば、民に一分の恩恵がある。辞表を出して帰ってきても何になるのか」



邵雍は普段人事の機微についてみだりに話すことは無かった。
治平年間のこと、
客と天津橋上を散歩をしていて杜鵑の声を聞いてから惨然として楽しまなかった。
客が理由を問うと、
「もともと洛陽には杜鵑はいない。なのに今やってきた」
「どういうことかね」
「二年経たずして南方出身の人間が宰相となるだろう。そして多くの南方出身者を引き上げ、変更することにつとめ、天下は事件が多くなるだろう」
「杜鵑を聞いて、どうしてそれを知るのか」
「天下が治まろうとすれば地の気が北から南へ、乱れようとすれば南から北へ動く。今、南方から気がやってきている。禽鳥など飛ぶ動物は気を先取りする。春秋にある『六羽の鷁が飛び去り鸜[谷鳥]がやってきて巣をつくる』というのは気がそうさせるからである。これから南方の草木が移ってくるだろうしそれに伴い南方の疾病瘴瘧の類に北方の人は苦しむこととなろう」
煕寧はじめになり、その言葉の通りとなった。



邵雍は洛陽にいた。
商州の太守で趙郎中という者がいて、邵雍とは旧知の中で往来があった。
章惇子厚が商州にある県の県令になり、彼を趙郎中は厚遇していた。
ある日、趙郎中は邵雍に頼んで章惇と会わせた。
章惇は豪俊で議論は縦横、邵雍に敬意をはらわなかった。
話が洛陽の牡丹の見事さに及ぶと趙郎中は章惇に言った。
「先生は洛陽の人で、花についてとてもお詳しいのです」
邵雍は言った。
「洛陽の人は根の出具合で花の出来がわかるのが上、枝葉を見てわかるの次で、蕾を見てわかるのが下ですね。貴方(章惇)の言われるところは下ですな」
章惇は恥じ入り黙った。
趙郎中は章惇に言った。
「先生の学問は深淵で、世の師表です。貴方が先生に従って学ぶことを惜しまなければ、毎日進歩があることでしょう」
章惇は弟子入りを願ったが、邵雍は、
「貴方が十年官職につかなければ学ぶことができるでしょう」と言って許さなかった。