竇儀(とう ぎ) 
乾化四年(914)〜乾徳四年(966)
字・可象
薊州漁陽の人
後晋の進士
竇儀がなくなると、太宗は「天はなぜわしから竇儀を奪ったのか」と嘆息した。



太祖は改元したいと思い、宰相に「今までに無い年号を使え」と命じた。
時の宰相は「乾徳がよろしいでしょう。これは今までにありません」と答えた。
乾徳三年正月、蜀(後蜀)を平定した。
蜀の宮人で掖庭に入る者があった。
太祖はその宮人の化粧道具を調べると鏡があって、それに乾徳四年鋳造とあった。
太祖は驚いて言った。
「四年の鋳造とはどういうことか」
そして宰相に鏡をさし示したが、誰も答えられなかった。
しかたないので、翰林学士の陶穀と竇儀を召出すと次のように上奏された。
「蜀(前蜀)の少主(王衍)にこの年号があります。その鏡は蜀で鋳造されたものに違いありません」
これを聞いた太祖は大いに喜んで嘆息して言った。
「宰相となすにはすべて読書人でなければならないな」
このことから文臣が重んぜられることとなった。



竇儀は開宝年間に翰林学士となった。
当時趙普が宰相で専権を振るっていた。
帝(太宗)はこれを患い、趙普の落度を聞きたかった。
ある日、竇儀を召して話題は趙普が不法なことばかりしていること、竇儀の才能を早くから嘱望していることに及んだ。
竇儀は「趙普は建国の元勲であり、公平忠亮で社稷の臣である」と盛んに言い立てたので帝は不機嫌になった。
竇儀は帰って酒を注がせ弟達に言った。
「私は絶対に宰相になれないが、辺境に流されることも無い。我が一族は安泰だ」
太宗は竇儀の次に同じ翰林学士である盧多遜を召出した。
盧多遜は趙普に恨みがあり、なおかつ自身の出世を願っていた。
そのため趙普の短所を攻撃した。
すると、趙普は宰相を罷免され、河陽の守りについた。
趙普は生命が危うかったが、昔の功績があったので危機を脱した。
盧多遜は参知政事となって(副)宰相となった。
しかし太平興国七年、趙普は宰相に返り咲き、盧多遜は崖州(海南島)に流されることとなった。
竇儀の言葉どおりとなったのである。