文學篇


鄭玄は馬融の門下にあって、三年間まみえることが出来なかった。
高弟が学問を伝授してくれるだけであった。
かつて渾天を計算して合わなかった。
弟子達の中でも解答できる者はいなかった。
ある人が言った。
「鄭玄ならできるんじゃないか」
そこで馬融は鄭玄を召して計算させると、一転してすぐに解決した。
そこにいた人々は皆感服した。
鄭玄は学業を成して帰ることとなって、馬融は禮樂が皆東へいくのを嘆いた。
また鄭玄がその道で名をほしいままにするのを恐れ内心妬んだ。
鄭玄も追っ手が来るのではないかと疑って、橋の下に座り水上で木製のはきものによっていた。
果たして馬融は式を転じて鄭玄を追おうとして、左右に告げて言った。
「鄭玄は土の下、水の上にあって木によっている。これは必ず死んでいるだろう」
そして追うことをやめた。
鄭玄は遂に免れた。


鄭玄は春秋傳の注釈をしようとして、まだ出来てなかった。
ある時、旅に出て服子愼(服虔)と客舎に同宿したが、互いにそれまで面識が無かった。
服子愼は外にいて車上で人に自分が傳を注釈した主意を説いていた。
鄭玄はこれを長い事聴いていたが、多くは自分と同じであった。
鄭玄は車によっていって共に語って言った。
「私はながいこと注釈しようと思っているのですが、まだおわりません。貴方の言葉を聴くと多くは私と同じです。私が注釈したものを悉く差し上げる」
そして服子愼の注釈ということになった。


鄭玄の家の奴婢は皆読書をした。
かつて一人の婢を使ったが、旨にかなわなかった。
そこでこの婢を鞭打とうとすると、婢は自ら申し開きをしようとした。
鄭玄は怒り、人を使って泥の中に引き据えさせた。
しばらくすると、別の婢がやってきてこの婢に問うて言った。
「胡をか泥仲に為す(詩経衛風)」
答えて言った。
「薄か言往きて愬ふれば、彼の怒りに逢う(詩経衛邶風)」


服虔は春秋に習熟していた。
注釈をつくろうとして同異を参考しようと思った。
崔烈が門下生を集めて傳を講義するのを聞いて、姓名を匿して雇われ崔烈の門下生の食事係となった。
いつも講義の時間になると密かに戸壁に隠れて聴いた。
そして自分はこえることが出来ないとわかり、門下生達と善し悪しを議論した。
崔烈はこれを聞いてどういう人間であるかわからなかった。
しかし前々から服虔の名前を聞いていたので、彼ではないかと疑った。
翌日の早朝に行って、まだ服虔が起きていなかったので、呼んだ。
「子愼、子愼」
服虔はおもわず返事をしてしまった。
そこでともに親しき友となった。


鍾會は四本論を撰し始め畢えた。
そして嵆康に読んでもらいたいと思い、ふところに入れていたが、嵆康に会うと、批判されるのを畏れ敢えて出さなかった。
戸外から遠く投げ入れ、どうなったかをみないで急に走った(帰った)。


何晏は吏部尚書となって、位望があった。
時に談客が座に盈ちていた。
王弼はまだ弱冠にもなっていなかったが出向いてまみえた。
何晏は王弼の名前を聞いて向者の勝れた理論をあげて王弼に言った。
「この理は僕には至極にあるとおもうのだが、反論できる余地はあるだろうか」
王弼がすぐに反論すると一座にいた人々は屈したと思った。
ここにおいて王弼自ら数回客主となったが一座の者は皆王弼に及ばなかった。


何平叔(何晏)は老子の注釈をなして出来上がると、王輔嗣(王弼)にのところに出向いた。
王弼の意見が精妙なのを見て神服して言った。
「このような人こそ、ともに天と人の関係を論じるべきだ」
そして注釈をもとに道徳二論をなした。


王輔嗣(王弼)は弱冠の時、裴徽をたずねた。
裴徽は問うて言った。
「無は誠に万物のもとであり、聖人はあえて言うことが無かったが、老子がこれを述べてやまないのはどうしてなのか」
王弼は言った。
「聖人は無を体得していますが、無は説明する事が出来ず、それゆえ必ず有に及びます。老荘はいまだに有を免れない。だからいつもその足りないところを説いたのです」


傅嘏は善く虚勝を言い、荀粲は談に玄遠をこのんだ。
いつも共に語り、争ってそれぞれさとることができないことがあれば、裴冀州(裴徽)は二人の論旨を明らかにして彼我の考えを疎通させ、いつも両方の気持ちを満足させ、両方が拘る事が無いようにした。


何晏は老子を注釈してまだおわらなかった。
王弼と会うと、王弼は自分の老子注の主旨を説いた。
何晏の意見はよくないところが多かった。
なので何晏は何も言わずただうなずくだけであった。
そして遂にまた注を作る事はせず、道徳論を作った。


中朝(西晋)の時、道家思想が流行った。
王夷甫(王衍)をたずねて疑問を問う者がいた。
たまたま王衍は昨日すでに多くを語っており、やや疲れており、答えなかった。
そして客に言った。
「今は体調が悪い。裴逸民(裴頠)もまた近くに住んでいるから、君はそっちへ行って聞いてくれ」


裴成公(裴頠)は崇有論を作り、時の人はこれを攻難したが、だれも論破できなかった。
ただ王衍が来ると、やや屈した。
そこで時の人が王衍の理論で反論してみると、裴頠の理論はますます冴え渡った。


諸葛宏は若いころ学問をしようとしなかった。
はじめ王夷甫(王衍)と談じると、すでに超詣していた。
王衍は歎息して言った。
「あなたは天才で傑出している。またすこし研鑽すれば、一つも愧じる所はなくなるだろう」
諸葛宏は後に荘老を看て、それから王衍と語れば互いに拮抗していた。


旧にいう。
王丞相(王導)は江左によってからは、聲無哀樂、養生、言盡意の三論を語るだけであった。
しかし自在に展開して、対処できない事は無かった。