黜免篇

諸葛宏は西朝(西晋)にあって、若いころから名声があり、王夷甫(王衍)に重んぜられた。
当時の世論もまた諸葛宏を王衍になぞらえていた。
後に継母の族党に讒言され、諸葛宏を誣告し狂逆として、遠くに流されることになった。
王衍ら友人が檻車のところまで来て別れを告げた。
諸葛宏は問うた。
「朝廷はどういう罪状で私を流罪にしたのか」
王衍は答えた。
「貴方を狂逆と言っている」
諸葛宏は言った。
「逆なら殺すべきで、狂なら流罪にする必要は無い」


桓公(桓温)は蜀に入り、山峡までやってくると、部隊の兵の中に猿の子を捕まえた者がいた。
母猿は岸によって哀しげに叫び、百余里進んでも去らなかった。
遂に船に飛び込んだがそのまま息絶えた。
母猿の腹を割いてみると腸が皆ずたずたに断たれていた。
桓温はこれを聞いて怒り、命じてその男を退けさせた。


殷中軍(殷浩)は廃され、庶人として信安にいた。
終日ずっとそらに字を書いていた。
揚州の吏民が昔の恩義から追ってきて、密かに見ると、ただ「咄咄怪事」の四字を書いてばかりいるのだった。


桓公(桓温)の宴席に参軍の椅という者がいた。
蒸した韮がほぐれず、一緒に食事をしていた者達は助けようとしなかった。
それでも椅は手を置くようなことはしなかった。
座にいた者達は皆笑った。
桓温は言った。
「同じ皿で食事をしてさえ助け合わない、ましてや危難をや」
そして命じて助けなかった者達を罷免させた。


殷中軍は廃された後、簡文帝(司馬c)恨んで言った。
「人を上らせて百尺の楼上に置いて、梯子をかついで持ち去りやがった」