雅量篇


豫章太守の顧邵は顧雍の子である。
顧邵は豫章郡で亡くなった。
顧雍は僚属を集めて碁盤を囲んでいた。
外から知らせが来たことを告げられ、子の手紙が無かった。
顔色が変わらなかったが、心中は顧邵が亡くなったことを察し、爪が掌を刺して、血が流れ褥をうるおした。
賓客は散会すると、はじめて歎息して言った。
「延陵(季札)のような高い心は無い。なのに涙で目を潰すような責を受けるわけにはいかない」
ここにおいて情をひろやかにし、哀しみを散じて、顔色は自若とした。


嵆中散(嵆康)は東市で処刑に臨み、顔色は変わらなかった。
琴を求め、これを弾き、廣陵散を演奏した。
曲が終わって言った。
「袁考尼(袁準)がかつてこの散を学びたいと請うたが、私は靳固してまだ教えていない。廣陵散は今絶える」
太学生三千人が書を奉り、師としたいと請うたが、許されなかった。
文王(司馬昭)もまた後に後悔した。


夏侯太初(夏侯玄)はかつて柱によって手紙を書いた。
この時大雨が降り、霹靂が夏侯玄のよっていた柱を破った。
衣服が焦げたが、顔色を変わらず、書くことも何もなかったようにやめなかった。
賓客左右は皆うろたえ落ち着くものはいなかった。


王戎は七歳の時、子供等と遊び、道端の李の樹が、実を多くつけ枝がしなっているのを看た。
子供等は争ってこれを取ったが、ただ王戎だけは動かなかった。
人が王戎にどうしてか問うと、答えて言った。
「樹は道端にあって、実はたわわです。これは必ず苦い李のはず」
取ってみるとその通りであった。


魏の明帝は宣武場の上で虎の爪牙を断ち、百姓がこれを見ることをゆるした。
王戎は七歳であったが、行って看た。
虎は隙をみて檻に攀じ登り吼え、その声は地を震わせた。
見ていた者達であとずさり倒れ臥さない者はいなかった。
王戎は湛然として動じることなく、少しも恐れる色がなかった。


王戎が侍中だった時、南郡太守の劉肇は筒中の箋布五端を王戎に贈った。
王戎は受け取らなかったが、厚く返書した。


裴叔則(裴楷)はとらえられても、顔色が変わることなく、挙止は自若としていた。
紙筆を求めて遺書を書いた。
遺書が出来上がったが、助命嘆願者は多かった。
なので免れ、後に儀同三司となった。