品藻篇


汝南の陳仲擧(陳蕃)、潁川の李元禮(李膺)の二人は、(人々は)共にその功徳を論じたが、優劣を定めることは出来なかった。
蔡伯喈(蔡邕)は彼等を評して言った。
「陳仲擧は上を犯す(直言する)に強く、李元禮は下をおさむるに厳し。上を犯すのは難しく、下をおさめるのは易い」
そこで陳蕃は三君の下に、李膺は八俊の上に位置した。


龐士元(龐統)が呉に行くと、呉人は皆彼を友とした。
龐統は陸績、顧邵、全jを見て評して言った。
「陸子はいわゆる駑馬だが足が速い。顧子は駑牛であるが重い物を背負い遠くへいける」
ある人が問うた。
「あなたの評価では陸績の方が勝っていると言う事ですか」
「駑馬は足が速いといっても一人を運べるだけだ。駑牛は一日に百里しか行けないが、運べるのは一人だけではない」
呉人は誰も反論しなかった。
さらに言った。
「全子が名声を好むのは、汝南の樊子昭に似ている」


顧邵はかつて龐統と夜通し語り合い、問うて言った。
「貴方は人を知ると聞いております。私と貴方ではどちらが勝っているでしょうか」
「世俗を教化し、時流に合わせて身を処すのは私は貴方に適いません。王覇の余策を論じ、倚伏の要害をみるのには私に一日の長があるでしょう」
顧邵もその言葉に納得した。


諸葛瑾、弟の亮および従弟の誕はともに盛名があり、それぞれ別の国に仕えていた。
当時こう評された。
蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た。
諸葛誕は魏に仕え、夏侯玄と名声を斉しくし、諸葛瑾は呉に仕え、呉の朝廷はそのひろい度量に感服した。


司馬文王(司馬昭)は武陔に問うた。
「陳玄伯(陳泰)は父の司空(陳羣)と比べてどうだろうか」
「通雅博暢、天下の風教を自らの任とするのには父に及びませんが、明練簡至、功を立て事を行うことにかけては父に勝ります」


正始年間に人士を比較論評し五荀を五陳とくらべた。
荀淑を陳寔とくらべ、荀靖を陳ェとくらべ、荀爽を陳紀とくらべ、荀ケを陳羣とくらべ、荀を陳泰とくらべた。
また八裴を八王とくらべた。
裴徽を王祥とくらべ、裴楷を王夷甫とくらべ、裴康を王緌とくらべ、裴綽を王澄とくらべ、裴瓚を王敦とくらべ、裴遐を王導とくらべ、裴頠を王戎とくらべ、裴邈を王玄とくらべた。