任誕篇


陳留の阮籍、譙國の嵆康、河内の山濤、三人は皆年が近く、その中でも嵆康が最年少であった。
この交わりに預かったのは、沛國の劉伶、陳留の阮咸、河内の向秀、琅邪の王戎である。
七人は常に竹林の下に集まって気ままに酒を酌み交わした。
そのため世間では彼等を竹林の七賢と呼んだ。


阮籍は母の喪に遭い、晋の文王(司馬昭)の宴席にはべり酒を飲み肉を食らった。
司隷校尉の何曾もまた宴席に参加していて言った。
「明公は孝をもって天下を治めておいでです。なのに阮籍は重喪にありながら、公の宴席にあって酒を飲み肉を食らっております。よろしく彼を海外に流刑して風教を正すべきです」
司馬昭は言った。
「嗣宗(阮籍のあざな)が痩せ衰えているのはあの通りだ。君が共にこれを憂えないのはどういうことだ。また病があって酒を飲み肉を食らうのはもともと喪禮だ」
阮籍は飲食して、表情も自若していた。


劉伶は二日酔いでとても喉が渇き、婦人に酒を求めた。
婦人は酒をすて、酒器を毀し、なきながら諫めて言った。
「あなたの酒量は多すぎです。摂生の道ではありません。必ず断ってください」
「よろしい。私は自分で酒をやめることは出来ないから、鬼神に祈り、誓いを立てて酒絶ちをしようと思う。だからそのための酒と肉を用意してくれ」
「わかりました」
婦人は酒肉を神前に供え、劉伶に誓いを立てるよう促した。
劉伶は跪き祈りながら言った。
「天は劉伶を生み酒をもって名をなさしめた。一飲一斛、五斗飲めば二日酔いも解ける。婦人言葉なんぞ絶対に聞かないぞ」
そして酒を引き寄せ肉を食らい、酔っ払ってしまった。


劉公榮(劉昶)は人と酒を飲むのに身分を問わなかった。
ある人はこのことを謗った。
すると答えて言った。
「私に勝る者とは飲まねばならない。私に及ばない者とも飲まねばならない。私の仲間ともまた飲まなければならない」
だから終日共に飲んで酔っていた。


歩兵校尉に欠員が生じた。
役所の厨房に数百斛の酒が蓄えられていた。
阮籍は自ら志願して歩兵校尉となった。


劉伶は常に酒びたりで奔放だった。
また衣服を脱いで裸で部屋の中にいた。
ある人がこれを見て謗った。
劉伶は言った。
「私は天地をもって住居とし、屋室を下着にしているのだ。諸君はどうして私の下着の中へ入ってくるのだ」


阮籍の兄嫁が実家へ里帰りした。
阮籍は直接会ってから別れた。
ある人がこのことを謗った。
阮籍は言った。
「禮は私のような人間のためにつくられたのではない」


阮公(阮籍)隣家の婦人は美人だった。
そして壚で酒を売っていた。
阮籍は王安豊(王戎)といつもそこで酒を飲み、阮籍は酔うとその婦人のそばで眠ってしまった。
夫がはじめは疑っていたが、観察していると、他意がないとわかった。


阮籍は母を葬るにあたり、豚一匹を蒸し、酒を二斗飲み、それからわかれに臨んで「窮れり」とだけ言った。
一たび号泣すると、血を吐き長い事ぐったりしていた。


阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)は道南に住み、他の阮氏の人々は道北に住んでいた。
北に住む阮氏は皆富み、南に住む阮氏は貧しかった。
七月七日、北の阮氏は盛んに衣服をさらし、それらはみな、紗羅錦綺だった。
阮咸は竿に大きな下着をかけて中庭に置いた。
人が何かあるのかと怪しむと、答えていった。
「まだ世俗から逃れる事は出来ないから、いささか真似した見ただけだよ」


阮歩兵(阮籍)が母を亡くしたので、裴令公(裴楷)は弔問に行った。
阮籍は酔い、髪は散じて牀に座って足を投げ出し哭礼をしなかった。
裴楷がやってきて、地面にすわって哭礼を行い弔辞を述べおわると帰った。
ある人が裴楷に問うた。
「弔というのは主人が哭礼してから客が哭礼を行うものです。阮籍が哭礼をしなかったのにあなたはどうして哭礼をしたのですか」
「阮籍は世俗の外にいる人だ。だから礼制を崇ばない。私は世俗の中にいる。だから儀の軌の中にいるのだよ」
時の人は両方ともその中を得ていると歎息した。