賢媛篇


陳嬰は東陽の人である。
若くして徳行を修め、郷里の仲間から称揚された。
秦末おおいに乱れ、東陽の人人は陳嬰を奉じて主にしようとしたが、陳嬰の母は「なりません。私がお前の家の婦となってから、若いころからずっと貧しかった。一旦(急)に富貴になるのは不祥です。兵を率い人に属したほうが良いでしょう。事が成れば少しはその利を得ることが出来、成らなくとも禍を別の人が引き受けるでしょう」と言った。


漢の元帝(劉奭之)は宮人が多かった。
だから画工(絵師)にその姿をえがかせ、呼びたい時は絵を見て決めた。
そのうちの並みの容姿の女は画工に賄賂を贈った。
王明君は容姿が甚だ麗しく、志を卑しくしてまで求めなかった。
画工はわざと彼女を醜く描いた。
後に匈奴が来朝して和睦がなり、美女を漢帝に求めた。
元帝は王明君を与える事にした。
召見すると与えるのが惜しくなった。
しかし相手に名前を伝えてしまっており、途中で改める事をしたくなかった。
ここにおいて遂にそのままやることになった。


漢の成帝(劉驁)は趙飛燕を寵幸した。
飛燕は班婕、が呪詛をしていると讒言した。
そこで彼女を取り調べると、次のように言った。
「『死生命有り、富貴、天に在り』と申します。善行を積んでも福を蒙れないのに、邪をなして何を臨というのでしょうか。もし、鬼神が知れば邪佞の訴えを受けるわけがございません。もし(訴えた事を)知らないのであれば何の益があるのでしょうか。だからやっておりません」


魏の武帝(曹操)が崩じると、文帝(曹丕)は武帝の宮人をことごとく自分のものにして侍らせた。
文帝の病が重くなると、卞太后が見舞いにおとずれた。
太后が戸に入って宿直の侍女を見ると、皆先帝の愛幸した者たちであった。
太后は問うた。
「いつ来たんだい」
「先帝がお隠れになるとすぐです」
太后はそれ以上進もうとせず、歎息して言った。
「狗鼠でもお前の食べ残しは食べないでしょう。死んで当然です」
そして葬儀に臨んでも泣くことはなかった。


趙母(虞韙の妻)は娘を嫁にやった。
娘が去るに臨んでいましめて言った。
「慎んで好いことをしてはなりません」
娘は言った。
「好いことをしないのであれば悪いことをするべきでしょうか」
母は言った。
「好いことすらやってはいけないのに、ましてや悪いことなどを」


許允の婦人は阮衛尉(阮共)の娘で、徳如(阮侃)の妹であった。
とても醜かった。
婚礼がおわっても、許允は部屋に入る気がなかったので、家人は深く憂えていた。
たまたま許允に客がやってきた。
婦人は婢に誰か見てこさせ、婢は還ってきて言った。
「お客は桓郎です」
桓郎とは桓範のことである。
婦人は言った。
「憂えないでください。桓範はかならず入る事を勧めます」
桓範は果たして、許允に言った。
「阮家ではすでに貴方に醜女を嫁に与え、それは何か意図があってのことだろう。貴方はこれを察するべきだ」
許允は内に入り、婦人を見るとすぐに出て行こうとした。
婦人はここで出て行ったら二度とやっては来ないと思い、裾を掴んで許允を止めた。
許允は言った。
「婦に四徳有りと言う。あなたはどれだけ備えているのか」
婦人は言った。
「新婦(自分)に乏しいのは容貌だけです。ところで士に百行有りと言います。あなたはいくつ備わってますか」
許允は「皆備わっている」と言った。
すかさず婦人は言った。
「百行は徳を第一とします。貴方は色を好んで徳を好みません。どうして皆備わっていると言えるでしょうか」
許允は慙じた表情をし、互いを敬重するようになった。


許允が吏部郎となると、郷里の人間を多く用いた。
魏の明帝(曹叡)は虎賁を遣わして許允を逮捕しようとした。
許允婦人は許允を戒めて言った。
「明主は理で説く事が出来ますが、情を以っては求める事はかないません」
許允が出頭すると、帝は覈問した。
許允はこたえて言った。
「汝の知るところを挙げよと申します。私の郷里の人は私の知るところであります。陛下、職に適っているかどうかお調べください。もし職に適わなければ、私は罪を受けましょう」
調べてみると、皆、適職だった。
なのでここにおいてゆるされた。
許允の衣服が破れていたので、詔を下して新しい衣服を賜った。
初め、許允がとらえられると、家をあげて泣き叫んだ。
阮家の新婦は自若として言った。
「憂える必要ありません。もうすぐお帰りになるでしょう」
粟の粥を作って待っていた。
しばらくするっと、許允は帰ってきた。


許允は晋の景王(司馬師)に誅殺され、門下生は走ってこのことを婦人に告げた。
婦人はちょうど機織りをしていたが、顔色を変えず言った。
「こうなることはあらかじめわかっていました」
門下生は許允の子供を隠そうとした。
婦人は言った。
「子供達の事は心配要りません」
後に居を墓所にうつすと、司馬師は鍾會を遣ってこれを看させた。
「もし才能が父に及ぶのなら捕らえよ」と。
子供は母にどうしたらよいか相談した。
母は言った。
「お前たちは佳と言えるでしょうが、才は多くありません。胸懐に従って語れば憂える必要はないでしょう。必要以上に哭泣せず、鍾會が哭禮をやめればお前たちもやめなさい。また、朝廷の事を聞いてはなりません」
子供はこれに従った。
鍾會は帰り、上奏して回答し、遂に免れた。


王公淵(王廣)は諸葛誕の娘を娶った。
部屋に入り、始めて言葉を交わすや、王廣は婦人に言った。
「新婦(あなた)の顔は卑下ている。公休(諸葛誕)に似ていないな」
婦人は言った。
「大丈夫(あなた)も彦雲(父の王淩)を彷彿とさせる事ができないのに、婦人を英傑と比べようとなさるのですか」


王経若くして貧苦であったが、仕官して二千石になった。
母はこれに語って言った。
「お前はもともと貧しい家の出身です。出仕して二千石となりました。これでもうよいでしょう(これ以上出世する必要はないでしょう)」
王経は聞かなかった。
尚書となって魏を助け、晋に忠でなかったのでとらえられた。
王経は涕泣して母に別れを告げ言った。
「母のいましめに従わずこういうことになりました」
母は悲しむそぶりを見せずに言った。
「子となっては考、臣となっては忠。考あって忠あり、どうして私にそむいたといえましょうか」


山公(山濤)は嵆康、阮籍と一度遭っただけ、で交わりは金蘭のようであった。
山濤の妻の韓氏は山濤が二人との交際が普通ではないと思い、山濤に聞いた。
山濤は言った。
「私は今友とすべき者はこの二人だけだよ」
妻は言った。
「釐負羈の妻もまた親しく、狐偃、趙衰を観ました。私もお二人をじかに拝見したいのですが、よろしいでしょうか」
後日、二人がやって来た。
妻は山濤にすすめて二人を泊め、酒肉を具え、夜に墉を穿ってこれを見て、夜明けになるまで帰るのを忘れた。
山濤は部屋に入ってきて言った。
「二人はどうだった」
妻は言った。
「貴方の才は二人に及びません。見識と度量で交友されるべきでしょう」
山濤は言った。
「彼等も私の度量が勝れていると言っているよ」


王渾の妻の鍾氏は娘を生んで令淑であった。
武子(王済)は妹のために美しいつれあいを求めたがいまだ見つけられなかった。
兵家の家の子がいて、儁才があった。
妹をこれと妻そうと思い、母に言った。
すると母は「誠に才があるなら、家柄はどうでも良いです。しかしながら私に一度会わせて欲しい」と言った。
王済は兵家の家の子と大勢のつまらないのとを雑處させ、母に帷の中から見させた。
母は王済に言った。
「あのような服装の者が、お前が望んでいる者ですか」
王済は「そうです」と答えた。
母は言った。
「あの人の才能は抜群でしょう。しかし家柄が低い。長生きしないと才能を発揮する事はできないでしょう。その形骨を観ると必ず短命におわるでしょう。結婚させるわけにはいきません」
王済はこの言葉に従った。
兵家の子は数年後、果たして亡くなった。


賈充の前妻は李豐の娘(李婉)であった。
李豐が誅殺されると、離婚して辺境(楽浪郡)に流された。
後に恩赦に遇い還ることが出来たが、賈充は郭配の娘(郭王璜)を娶っていた。
武帝(司馬炎)は特別の左右夫人を置く事を許した。
李氏は外に別居し、敢えて賈充の舎に還ろうとしなかった。
郭氏は賈充に語って、李氏を訪問したいと言った。
賈充は言った。
「彼女は剛介で才気があって、お前は行かないほうが良いだろう」
郭氏はここにおいて威儀を盛んにして多くの侍女を従え向かった。
戸口までやってくると、李氏は立って迎えた。
郭氏は無意識に跪き再拝した。
帰って賈充にこのことを語った。
賈充は言った。
「私はお前に何と言った」


賈充の妻の李氏(李婉)は女訓を作り、世間にひろまった。
李氏の娘は斉献王の妃、郭氏の娘は恵帝の后である。
賈充が亡くなると、李、郭の娘が各々母を合葬しようと思い、年が経っても決まらなかった。
賈后が廃されると、李氏が祔葬されることが遂に定まった。