巧藝篇


弾棊は魏の宮廷内で化粧箱を使った遊びから始まった。
文帝(曹丕)はこのあそびが特にうまかった。
手巾の角を使ってこれを拂うとあたらないことは無かった。
客で自ら得意だと言う者がいた。
曹丕がその客にやらせてみると、客は葛巾をつけ、その角で頭を下げて棊を拂い、その巧妙さは曹丕をこえていた。


陸雲臺の楼観は精巧であった。
まづ、材木の軽重をはかり、それから組み立てたので、ほんの少しの狂いもなかった。
臺は高峻にしつらえられ、常に風に揺られていたが、ついに倒壊することはなかった。
魏の明帝(曹叡)が臺に登り、その危うさを懼れ、別の大材をつかってこれを補強させると、楼は倒壊してしまった。
論者が言った。
「軽重の力が偏ったせいだろう」


韋仲将(韋誕)は書に巧みであった。
魏の明帝が宮殿を建造し、額を掲げようと思い、韋誕に梯子に登らせて書かせた。
韋誕が書き終わって降りてくると頭鬢が真っ白になっていた。
そこで児や孫にいましめて二度と書を学ばないようにさせた。


鍾會は荀済北(荀勗)の従舅(おじ)であったが、二人の仲は悪かった。
荀勗は宝剣を持っていて、百万の値がした。
いつも母の鍾夫人のもとに在った。
鍾會は書が巧かったので、荀勗の手蹟をまねて手紙をつくり、それを(荀勗の)母に送り剣を受け取り、そのまま盗んでかえさなかった。
荀勗は鍾會の仕業であるとわかったが、取り返すすべがなかった。
そして鍾會に復讐しようと思った。
後に鍾兄弟(鍾毓と鍾會)は千万もの費用をかけて邸宅をつくった。
出来上がり、とても精麗であったが、まだ移り住んでいなかった。
荀勗は非常に絵が得意であった。
だから密かに行って門堂に太傅(鍾繇)の肖像を描いた。
二鍾(鍾毓と鍾會)は門に入り、大いに感動し、そのまま新居は廃屋となった。