傷逝篇


王仲宣(王粲)は驢馬の鳴き声を好んだ。
埋葬は終わり、文帝(曹丕)はその喪に臨んで、顧みて友人達に言った。
「王粲は驢馬の鳴き声が好きだった。皆がそれぞれ一声鳴いて彼を送ることにしよう」
弔問客達はみな一声ずつ驢馬の鳴き声の真似をした。


王濬沖(王戎)が尚書令だった時、公服をつけ軺車に乗り、黄公の酒壚のもとを通り過ぎた。
顧みて後ろの車の客に言った。
「私は昔、嵆叔夜(嵆康)、阮嗣宗(阮籍)とともにこの壚で酣飲して、竹林の遊のにも末席に預かりました。嵆生が夭折し、阮公が亡くなって以来、時の羈紲するところとなって、今日これを視ると、近くにあるといっても遙か遠くにある山河のようだ」


孫子荊(孫楚)は自身の才能のため、人に頭を下げる事はほとんどなかった。
ただ王武子(王済)だけは尊敬していた。
王済が亡くなった時、名士で弔問に来ないものはなかった。
孫楚は遅れてやってきて、遺体の前に来ると慟哭した。
来客で涙を流さない者はいなかった。
哭礼がおわると、霊牀に向かって言った。
「あなたはいつも私が驢馬の鳴き声を真似するのをお好みでした。今、あなたのためにやりましょう」
その声は本当に似ていて賓客たちは皆笑った。
孫楚は頭を挙げて言った。
「君等のようなものを生かし、このような人を死なせるとは」


王戎が子の萬子(王綏)を亡くすと、山簡が見舞いに訪れると、王戎は悲しみにたえないようであった。
山簡は言った。
「まだむつきにいるような子のことでなぜこんなに悲しむんだ」
「聖人は情を忘れ、最下は情に及ばない。情があつまるのは、正に我等のところだ」
山簡はその言葉に感服し、あらためて彼のために慟哭した。


ある人は和長輿(和嶠)を哭して言った。
「峨峨として千丈の松が崩れるようだ」