賞誉篇

陳仲挙(陳蕃)はかつて歎息して言った。
「周子居(周乗)のような者は、眞に国を治める器である。これを宝剣に譬えるなら干将である」


世間では李元禮を次のように評した。
「謖謖としてつよい松の下の風のようだ。」


謝子微(謝甄)は許子将兄弟(許靖、許劭)を見て言った。
「平輿の淵に二龍あり」
弱冠のころの許子政(許虔)を見て歎息して言った。
「許子政のような者は幹国の器である。色を正して直言するのは陳仲許のあしである。悪を伐ち不肖を斥けるのは范孟博(范滂)のようである」


公孫度は邴原を評した。
「いわゆる雲中の白鶴である。燕雀の網で捕らえられているものではない」


鍾士季(鍾會)は王安豐(王戎)を評して言った。
「阿戎は了了人の意を解する」
また言った。
「裴公(裴楷)の談は日を経てもつきない」
吏部郎に欠員ができたので、文帝(司馬昭)は鍾會に誰を用いるべきか問うた。
鍾會は言った。
「裴楷は清通、王戎は簡要でどちらも適任です」
ここにおいて裴楷が用いられた。


王濬沖(王戎)、裴叔則(裴楷)の二人は、成人前に鍾士季を訪ねた。
しばらくして去った後、客が鍾會に問うた。
「さっきの二童はどうですか」
鍾會は言った。
「裴楷は清通、王戎は簡要である。二十年後この二人は吏部尚書となるだろう。こいねがわくばその時天下に埋もれている才がないように」


ことわざにいう。
「後来の領袖に裴秀有り」


裴令公(裴楷)は夏侯太初(夏侯玄)を評して言った。
「粛粛として廊廟の中へ入るように敬を修めなくとも、人は自ずから尊敬する」
あるいはこう言った。
「宗廟に入るに琅琅としてただ樂禮の器を見るようだ。鍾士季を見れば武庫に入ってただ矛戟を見るようだ。傅蘭碩(傅嘏)を見ればおおきく備わらないものは無いようだ。山巨源(山濤)を見れば、山に登って下を望んで幽然として深淵であるようだ」


羊公(羊祜)が洛陽に帰還すると郭奕(郭嘉の子ではない)は野王の令であった。
羊祜が県境に達すると、人をやってむかえさせた。
そして郭奕はすぐに自ら行った。
そして会って歎息して言った。
「羊叔子(羊祜)はどうして郭太業(郭奕つまり自分自身)よりも劣ろうか」
また羊祜のもとへ行きしばらくして帰り、また歎息して言った。
「羊叔子は人よりはるか遠くへ行っている」
羊祜が去ると、郭奕は数日見送り数百里も行ってしまった。
県境から出てしまった罪で免官された。
また歎息して言った。
「羊叔子はどうして顔子(顔回)に劣るだろうか」


王戎は山巨源(山濤)を評した。
「璞玉渾金の如し。人は皆その寶として欽ぶが、その器をなんと呼んで良いかわからない」


羊長和(羊忱)の父の羊繇は太傅の羊祜の従兄弟で仲が善かった。
出仕して車騎掾に至ったが、早くに亡くなった。
羊忱の兄弟五人は、幼くして孤児となった。
羊祜は弔問にきて哭し、羊忱の哀しみ方、挙止を見て、歎息して言った。
「従兄は死んではおらぬ」


山公(山濤)は阮咸を推挙して吏部郎にしようとして評して言った。
「清眞寡欲にして、万物でも心を動かす事は出来ない」


王戎は阮文業(阮武)を評した。
「清倫でいて鑒識が有る。漢のはじめからこのような人はいなかった」


武元夏(武陔)は、裴楷と王戎を評して言った。
「王戎は約をとうとび、裴楷は清通である」


庾子崇は和嶠を次のように評した。
「森森として千丈の松のようで、磊砢として節目有りといえども、これを大邸につかえば、棟梁のはたらきをするであろう」


王戎は言った。
「太尉(王衍)は神姿高徹、瑤林瓊樹のようだ。自然、これは風塵の外の物である」