惑溺篇


魏の甄后は聡明で美しかった。
はじめ袁煕の妻となって寵愛を受けた。
曹公(曹操)が鄴を陥落させると、すぐに甄氏を連れてくるように言った。
左右が言った。
「五官中郎将(曹丕)がすでに連れて行きました」
曹操は言った。
「今年賊を破ったのはあいつのためにしてやったようなものだな」


荀奉倩(荀粲)は婦人(曹洪の娘)と至って仲睦まじかった。
冬になると婦人が発熱し病となると、中庭へ出て自分を冷やしてかえり、身をあてて(婦人を)暖めた。
婦人が亡くなると荀粲も間を置かずに亡くなった。
このため世間からそしりを受けた。
荀粲は言っていた。
「婦人は徳称するほどのものではない。容姿を一番とするべきだ」
裴令(裴頠)はこれを聞いて言った。
「これは興が乗ったから言っただけで盛徳の言葉ではない。願わくば後世の人がこの言葉にくらまされないように」


賈公閭(賈充)の後妻の郭氏は嫉妬が激しかった。
男児がいて、名を黎民といい、生まれて満一歳であった。
賈充が外から帰ってくると、乳母が子供を抱いて中庭にいた。
子供は賈充を見て喜びはしゃいだ。
賈充は乳母の手の中の子に口づけをした。
郭氏は遠くからこれを見て、賈充が乳母を愛していると思い、乳母を殺した。
子供は悲しんで啼泣し、他の人の乳を飲まず、遂に死んでしまった。
郭氏にこの後子供が生まれることはなかった。


孫秀が晋に降服すると、晋の武帝(司馬炎)は厚く寵愛し、妻の妹の蒯氏を娶わせた。
二人の中は厚く睦まじかった。
かつて妻が嫉妬して、孫秀を罵って貉子と言った。
孫秀は穏やかでなく遂に妻の部屋に入ろうとしなかった。
蒯氏は大いに後悔して帝に救いを求めた。
この時、大赦があって、群臣は皆謁見した。
群臣が退出すると、帝は独り孫秀を引き止めて従容として言った。
「天下は曠蕩である。蒯夫人もその例に従うべきではないかね」
孫秀は冠を脱いで謝罪し、遂に夫婦仲は初めと同じようになった。


韓壽の容姿は美しかった。
賈充は韓壽を辟召して掾(属官)にした。
賈充が聚会するたびに賈充の娘(賈午)は青塗りの飾り窓越しに韓壽を覗き見て悦び、いつも恋慕いそれを詩にして発した。
後に婢が韓壽の家へ行き、事情を話すとともに賈午が光麗であると言った。
韓壽はこれを聞いて心が動き、遂に婢に頼んで密かに手紙を届けてもらい、期日になると行って泊まった。
韓壽は人並みはずれて身軽で、塀を越えて侵入したが、家の中の人間は誰も気づかなかった。
賈充は娘が盛んに化粧して話す調子がいつもと違う事に気がついた。
後に諸吏と会合を開いた時、韓壽に奇香があると聞いた。
これは外国からの貢物で一たび人につけば数ヶ月は匂いが消えないものであった。
賈充は考えると、この香は武帝(司馬炎)が自分と陳騫に賜っただけで、他所の家にはこの香は無いのだから、韓壽と娘が通じているのかと疑った。
しかし、垣や塀が何重にもなっていて門が高く聳えているのだからどうして忍び込む事が出来ようか。
泥棒が入った事にかこつけ、塀を修繕させた。
修繕させた者が帰ってきて言った。
「他のところに異常はありません。ただ東北の角に人の足跡があります。しかし塀が高いので人が超える事は出来ないでしょう」
賈充は娘の周りの婢を訊問するとありのままを答えた。
賈充はこれを隠して、娘を韓壽に嫁がせた。


王安豊(王戎)の婦人はいつも王戎を卿と呼んだ。
王戎は言った。
「婦人が夫を卿と呼ぶのは、禮によれば不敬にあたる。今後そう呼ぶ事が無いように」
婦人は言った。
「卿に親しみ卿を愛す、だから卿を卿と呼ぶのです。私が卿を卿と呼ばなかったら、誰が卿を卿と呼ぶのですか」
遂にこれを許した。


王丞相(王導)に妾がいて、姓は雷で政事に預かって賄賂をとった。
蔡公(蔡謨)はこれを雷尚書と言った。