尤悔篇


魏の文帝(曹丕)は弟の任城王(曹彰)が驍壮なのを忌んでいた。
卞太后の部屋で共に碁を打ち、ならびに棗を食べるにおよんで、曹丕は毒を棗のに仕込み、自らは大丈夫な物を選んで食べた。
曹彰は悟らず、毒の入った物も食べてしまった。
毒に中ってしまうと、太后は水をもとめて曹彰を救おうとしたが、曹丕があらかじめ左右に勅してつるべを毀してしまっていたので、太后が裸足で井戸へ赴いても水を汲むことが出来ず、しばらくすると遂に亡くなった。
また東阿(曹植)を害そうとしたが、太后は言った。
「お前はすでに私の任城を殺しました。また私の東阿を殺す事はなりません」


王渾の後妻は琅邪の顔氏の娘で、王渾はこの時徐州刺史であった。
交禮で新婦が拝しおわり、王渾が答拝しようとすると、見ていた者皆が言った。
「王侯は州将で、新婦は州民である。答拝する理由は無いでしょう」
なので王渾は答拝をやめた。
武子(子の王済)は父が答拝せず、禮をなしていないので、夫婦ではないとして、彼女を母として拝せず、顔妾と呼んだ。
顔氏はこれを恥じたが、名門の家柄なので、敢えて離縁しようとはしなかった。


陸平原(陸機)は河橋で敗れ、盧志に讒言され誅殺された。
処刑に臨んで歎息して言った。
「華亭の鶴の鳴き声を聞きたいと思うが二度と叶わないのだな」


劉琨は人を招くのは上手かったが、統率は拙かった。
一日に数千人が帰投したことがあったが、逃散して去るのも同じようだった。
遂に手柄を立てることが出来なかった。