太史公いわく、私は「管子」の牧民、山高、乗馬、軽重、九府の諸篇および「晏子春秋」を読み、その言うところはとても詳しい。
その著作を読むとその行いを調べたくなり、ここに傳を設ける。
その書物に関しては世にあまねく知られていることであり論じず、逸事だけを書き連ねる。
管仲は世にいうところの賢臣であるが、しかし孔子は器が小さいと言った。
周が衰微したとき桓公が賢主であるならば、王道を進み周王室をたすけることをせず、覇を称えさせたからであろうか。
語にいう「其の美をおこない順い、其の悪をただし救う。ゆえに上下よく相い親しむ」とはまさに管仲のことであろうか。
晏子は荘公の屍に伏してなき、礼を失うことなく去った。
これは「義を見てせざるは勇無きなり」というものであろうか。
主君を諫めるときは顔色を伺うようなことをしなかった。
これこそ「進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過ち補わんことを思う」であろうか。
仮に今、晏子がいるのであれば、私は御者となっても仰ぎ慕うところである。索隱述贊、管仲は覇をなし、晏子は賢と称えられる。
粟の倉庫は豆が肩まであふれる。
禍を転じて福となし、直言しては全うすることを得た。
孔子が着物を左前で着ずにすみ、司馬遷は鞭をとりたいと願った。
礼のなさざるは無く、人望は終わることなく慕われている。